英国のオックスフォード大学出版局が、2016年を象徴する言葉として、Post Truth(ポスト・トゥルース)を選んだ。
この言葉は、ほんの最近出てきた言葉で定義は定まっていない。
米国で「ポスト・トゥルース」、
日本では、「ポスト真実」といい、やや意味は異なるようだ。
しかし、書いてある内容が事実かどうかということでは、それがウソであるという点は共通しているのである。
世界的な「ポスト・トゥルース」は、
受信者が事実かどうかということは問題にせず、
自分の都合のいい、いわば「ザマー見ろ」と思えるような溜飲を下げる話題だけを見ていく現象
だといえるのだ。
日本の場合、発信者が意図的に世論を誘導したり、印象を操作したりするための「デマ」となることが多い。
発信者と受信者の関係で見ると、
ポスト・トゥルースという問題は情報の受け手にある。
発信者はページビュー(PV=ウェブサイトの閲覧数)を稼ぐために悄報を発信している。
見てもらうことで広告収入を得るため、
嘘でもいいから人がスカッとする「偽二ユース」を発信する。
受信者は、受けた情報が事実に基づくものか、でっち上げなのか分からないように書かれているため、自分が正しいと思えるものは正しいものとして読んでしまうのだ。
センセーショナルなものであればあるほど、情報は流通する。
情報の価値はいま、読む側が決めている時代になっている。
無料で情報を得たい読者の側のニーズ(要求)と、PVが多ければいいという発信者の側の思惑が組み合わさっているためだ。
フェイスブックなどSNS(会員制のソーシャル・ネットワーキング・サイト)を通じ、「偽ニュース」でも拡散できるようになった。
センセーショナルな情報であればPVを獲得でき、自分と同じ価値観を持つ人間同士や仲間などの中で広がり、そこから別の仲間に波及する増幅効果がある。
新聞は紙媒体のため、読者が読むにとどまり、
そこからの拡散は限られるが、SNSなどのデジタル情報は拡散していく。
しかも、デジタル情報は見ている側にとって見出しと記事で構成されるニュースの形に一応なっている。
ニュース記事のようであれば、「ニューヨーク・タイムズ」だろうが、極右サイトの「プライトバート・ニュース」だろうが、同列に映ってしまうという。
これまで読者は料金を払って一紙なり二紙なりの新聞を選択していたが、今は細切れの記事が無料で読めて無数の情報源にアクセス可能だ。
ジャーナリズムには記事の信憑性を大事にし、
裏取りなどのエディトリアル・コントロール(編集管理)があるが、
ウェブ媒体の人たちにそんなものは全く関係なく、売れるかどうかという基準しかない。
伝統的メディアとPVを稼ぐウェプ媒体が混在し、それが同じデジタルの土俵に乗っているのが現状なのだ。
タブロイド紙やスポーツ紙にも編集者としての最低限の誠意や誠実さが残っていたが、ウェプ媒体には全くない。
「偽ニュース」は、情報の真偽にかかわらずサイトのアクセス数が増えれば収入につながるが、新聞などの伝統メディアは収入増のために嘘の情報は流せないのだ。
ウェブ媒体は買ってもらえなくても構わない。
既存のメディアが持っている倫理観を一歩飛び越えてしまったところに、
ポスト・トゥルースが生まれた背景がある。
そうした中にあって、読む側のリテラシー(読み取る力)の重要性を増してきている。
「ポスト・トゥルース」。
トランプ政権になってますますこの言葉がこれからマスコミに登場することだろう。
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